プラハのカレル橋といったらプラハ観光では外せない名所ですね。
観光で来てカレル橋を訪れていない人っていうのはいないんじゃないでしょうか。
カレル橋周辺の景観は21世紀現代の感覚とはかけ離れたものです。
今回はそんな時の流れからは外れてしまった感のあるカレル橋についてのお話です。
「カレル橋」という現在の名前で呼ばれるようになったのは実は1870年からの事で、それ以前はただ単に「石橋」とか「プラハ橋」と呼ばれていました。
地名や建築物などの名称は時代が変わると異なった呼ばれ方をする事も多々ありますが、とりわけ19世紀から20世紀初頭に多くの地名や建築物などの名称がプラハでは変わっています。
その理由については、今回のお題とは別の方向に話がいってしまうのでやめておきますが、カレル橋もそのひとつなんですね。
カレル橋は1357年に工事が始まり、完成したのは1402年です。
ですが実はカレル橋があそこに作られる前に「ユディタ橋」という石橋がありまして、この1172年に完成したユディタ橋というのはかつての古代ローマ帝国の版図外のヨーロッパでは最も古い石橋でした。(現在世界遺産となっているドイツの美しい街並みのレーゲンスブルクの石橋は1146年に完成してユディタ橋よりも26年早いですが、レーゲンスブルクはドナウ川沿いの帝国国境の要塞だった街です)
ですけど、このユディタ橋が1342年、ヴルタヴァ川の増水で壊れてしまって、その15年後にカレル橋の工事が始まったんですが、何故15年も期間が空いてしまったのかというと、それまでの石橋とは違う、そう易々とは壊れない頑丈な橋を作ろう、という事で、設計段階から練りに練って、石材や資金を確保するために奔走してたら15年経ってしまったんです。
この辺りの事はカレル橋のたもとにあるミュージアムで詳しく展示、解説がされてます。あまり旅行者に存在を気付かれない可哀想なミュージアムですが面白いので興味のある方は行ってみてください。
で、それだけ気合いの入った事業ですので、当時このカレル橋の工事を始める前に、時の皇帝カレル4世じきじきに礎石を置いたんですが、その日付と時間というのが1357年7月9日5時31分と言われています。
日本と違ってこちらでの日付表記は日が月よりも先にくるので正確には「1357.9.7.5.31」となります。
これ、上から読んでも下から読んでも、というやつですね。回文です。
この日付と時間は当時の占星術によって決められたというのは有名な話なんですけど、これが謎なんですよね。
なにが謎かって、この時代、まだ分を表す時計というものは存在していません。
14世紀の時計といったら、まだ針も文字盤もなく、高い塔の中に機械が設置されて、ある時間になると鐘を鳴らして知らせる、という様なものでした。
この鐘もかなり1日のうちでズレがあったようです。
なので、「分」までなんてのは分かりようもないです。
ちなみに時計に針が現れたのは15世紀で短針のみです。分針である長針が現れ始めたのはオスマン帝国で16世紀に入ってからで、当時はイスラム世界であるオスマン帝国がヨーロッパよりも先の未来を行っていたので、こっちの方では全然まだまだ後の時代、17世紀に入ってからです。
という事で、この「135797531」という数字の並びをどのように出したのか、ちょっと私は占星術には詳しくないので分かりませんが、ひとまず、中世・近世の占星術にも詳しいチェコの天文学者であるズデニェク・ホルスキーさんによると、
「この1357年7月9日5時31分というのは、惑星が水のサインでもある蟹座と魚座のなかにあって、悪影響を与えるとされていた土星の位置が太陽によってさえぎられていたので、その時、ペストや飢饉で困っていたチェコにとっても、これは今後、悪運を取り払う幸運の兆候であった。」
との事のようです。
数字の意味は分かっても結局どのような方法で数字を割り出したのかは分かりません。当時はなんとなくでしか時間を把握出来ていなかったのに、分まで正確に割り出すというのは、かなりなミステリーだと私は勝手に思っていますが、どうなんでしょうね。
後世に作られた逸話じゃないの?なんて事も囁かれていますが、それじゃ身も蓋もない夢のない話になってしまうので、ここでは聞かなかった事にします。
カレル橋にまつわる話はまだまだたくさんあって、1冊の本が書けてしまいそうなくらいなので、今回はこのミステリーだけを残して終わりたいと思います。
プラハにいらして景色を見ながらカレル橋を渡る時には、そんな謎を多く残した700年の歴史がある橋だという事を思い出して頂くと、さらに旅の楽しさもひとしおかと思います。
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