母を思い続けたチェコの国父、皇帝カレル4世

チェコ歴史あれこれ

プラハといったらまずはこの偉人をご紹介しなければプラハ観光の魅力も半減してしまうでしょう。

その人物とは、神聖ローマ帝国皇帝カレル4世です。

彼は世界史の教科書でも「金印勅書」なるもので登場してくる有名人ですが、それだけでは御座いません。他にも様々な事を彼は生涯でやってのけまして、そのひとつで現在旅行者が肌で感じる事が出来るのが、今あるプラハの街の景観です。

そんな「時代を先取りした文人皇帝」とも呼ばれた皇帝カレル4世、彼の偉業については日本語で検索してもそれこそチェックしきれないほど多くのページが出てくるので、ここではあまり語られる事のない彼のプライベートな生い立ちについてお話ししていきましょう。

上の絵はフランス王シャルル5世が叔父の皇帝カレル4世とその息子でいとこのヴァーツラフ4世をパリのシテ宮殿の宴席に招いた時の様子です。
ユリの紋章の入った服を着た人がシャルル5世で、その左の赤い服がカレル4世、そして右がいとこのヴァーツラフ4世です。

なぜこの絵を貼ったのかというと、皇帝カレル4世とフランス王家の密接な関係を表す1枚でもあるからなんです。

1316年の5月14日、カレル4世はプラハで生まれてヴァーツラフと名付けられました。お父さんはルクセンブルク伯爵家(当時)で皇帝ハインリヒ7世の息子ヨハン、お母さんはチェコ・ボヘミア王そしてポーランド王だったチェコ・プシェミスル王家の王様ヴァーツラフ2世の娘、エリシュカです。

こう聞くと、伯爵家で皇帝?王家の姫と結婚?と思われる方もいるかもしれませんが、当時は身分というものよりも、各諸侯にとって神輿にして担ぎやすい人物が皇帝に選ばれる事が多くありました。この後出てきますが、皇帝ハインリヒ7世の息子ヨハン(カレル4世の父)がチェコ・ボヘミア王となったのもチェコ貴族達の要求でしたが、その理由には「皇帝ハインリヒ7世の要望である皇帝の弟ヴァルラムが王となるより息子ヨハンの方が御しやすいだろう」という考えでもあったようです。まぁ本当に担ぎやすかったかどうかは後になってみないと分かりませんけどね。しかしそれも近世に入ってハプスブルク家が台頭してくると時代が変わります。

(もう少し当時についての詳細を述べますと、元々ルクセンブルク家はフランス語を母語としたフランス王の封臣で、さらに元々フランスという国はフランク王国(西)で、その頃のフランス王フィリップ4世は「シャルルマーニュ (カール大帝) によって復活したローマ帝国は本来フランスによって引き継がれなければならない」として皇帝の地位を狙っていました。
そこでフィリップ4世は聖界選帝侯三人をフランス王権と関係のある人物で占めさせドイツ方面への勢力拡大を図ります。そのうちのひとりトリーア大司教バルドゥインはハインリヒ7世の弟です。もうコテコテです。
その結果なんだかんだあって [中略] 誕生したのがルクセンブルク伯爵家の皇帝ハインリヒ7世です。)

 

お父さんヨハンの出身地ルクセンブルクといったら現在はフランス、ドイツ、ベルギーに囲まれたルクセンブルク大公国で、およそ東京都と同じくらいの国土という非常に小さな国ですが、当時はもう少し大きい領地を持った伯爵家でした。
そのルクセンブルク家というのはフランスのアルデンヌ家の分家筋にあたる家なんですが、9世紀の終わりにドイツ王が皇帝となる神聖ローマ帝国(当時は東フランク王国)に併合されたため、現在のルクセンブルク語というのはドイツ語の方言とフランス語が混ざった独特の言語になっています。
そんなフランスとも濃い縁を持ったルクセンブルク家の血筋であるカレル4世の叔父さんというのはフランス王のシャルル4世でした。

そしてお父さんのヨハンはチェコ・ボヘミア王でもあったんですが、チェコの事なんか全く興味がなくて、あくまでもルクセンブルク家のために各地の戦場を飛び回っていて、その戦費を徴収しに来る時くらいしかチェコにはやって来ませんでした。ただのATMですね。なので、そんなデタラメな王様に対してチェコの貴族達は不満を募らせていて、当時チェコではあらゆる勢力がバラバラとなり内戦が起こりそうな状態だったんです。(というか小さな衝突は頻繁に起きていました。)

ただこれにはヨハンの方にもちゃんとワケがあって、当時多くのチェコ貴族達は外国人(ドイツ語圏の貴族達)の取り巻きを引き連れてやってきた王様を認めていなかったので、ヨハンに反抗し続けていたんです。だからと言って500年続いてきたチェコの王家プシェミスル家から王様が出せるかと言ったら、それは無理な話でした。なぜかと言うと、数年前にチェコ・ボヘミア王のヴァーツラフ3世は暗殺されてしまって、彼には跡継ぎがいなかったんですね。なので、ヨハンの方もあまり高圧的な態度をとらずに、もう少しチェコ貴族達の気持ちを気遣ってあげられたら良かったんじゃないでしょうか。それも無理な話ですかね。(チェコに地盤のない王ヨハンとチェコ貴族達の間、そしてチェコ貴族内でも様々な権利争いが続いていてチェコ国内では多くの派閥が出来ていました。)

という事で、そのチェコ貴族達の反抗に危険を感じていたヨハンは、不満を持ったチェコ貴族達が幼いカレル4世とチェコ・ボヘミア王家のお姫様である奥さんのエリシュカを担ぎ上げて反乱を起こすんじゃないかとも思っていたので(実際に様々な陰謀があり捕縛された大物貴族もいました)、エリシュカとカレル4世をまずはプラハから西50km程離れたクジヴォクラート城(はじめはプラハ城で火災があったためにエリシュカとカレル4世はここに避難していました)、そして次にプラハから西140km程離れたロケト城に監禁したんです。ですが、ロケト城に監禁後すぐにヨハンは軍を率いてロケト城を包囲し襲撃しています。この時奥さんのエリシュカは「夫のヨハンは気が触れてしまったのではないか。」と言ったらしいですが、なんでそこまでの事をヨハンはしたのかというと、「反乱の計画が実際に練られています。」という密告を耳にして激昂していたからなんです。この密告というのもただの噂というわけではなく、実際にエリシュカ自身も野心家的な側面のある人で、「夫のヨハンは私と結婚したおかげでチェコの王となれただけで、本来私がチェコ王家を継ぐ人間。」と常に思っていたので、ヨハンもそういった空気のある面倒なチェコには長居はしたくなく、純粋にルクセンブルク家のためだけに各地を転々としていたんです。(実際にその後エリシュカはプラハの貴族達と共にヨハンに対して反乱を起こしています。) そういった地盤があったんですね。

ロケト城(Loket)

そしてヨハンのロケト城襲撃後は、お母さんのエリシュカはプラハから北40km程離れたムニェルニーク城に移されて、3歳のカレル4世はロケト城の独房に女官二人と共に二ヶ月間閉じ込められた後、クジヴォクラート城に再び戻されて監禁されてしまったんです。つまり、カレル4世は実の父親に人質とされたような状態です。なかなかですね。

「父ヨハンは息子カレルを支配権をめぐる競争相手としか見ておらず(この競争相手というのは反ヨハンのチェコ貴族達も含む)、愛情を与えるような対象ではなかった。」と言われています。

ムニェルニーク城(Mělník)

そういった事もあって、奥さんのエリシュカとは、ヨハン、夫婦仲があまりよろしくなかったようで、二人の間で戦もあり(前述)、のちの関係悪化でエリシュカはバイエルンに逃亡しています。ごめんなさい、あまりどころか全然仲良くないですね。さらにヨハンは息子のカレル4世が7歳になるとクジヴォクラート城から連れ出して、帝王学を学ばせるためにチェコ貴族達の手が届かないパリに送って、カレル4世の叔父さんであるフランス王シャルル4世のいる王宮に預けてしまいます。

クジヴォクラート城(Křivoklát)

そしてカレル4世、パリの王宮での生活が始まるんですが、カレル4世は非常に頭の回転が速く記憶力も良い、出来た子だったらしく、そのパリではフランス王シャルル4世に非常に可愛がられていたようで、シャルル4世は家庭教師として後のローマ教皇クレメンス6世をカレル4世につけました。そして当時のヨーロッパではシャルル4世が受けた以上の最高の教育を受けて、それを余すことなく吸収し、家庭教師のクレメンス6世も幼いカレル4世に既に一目置いていました。そして後にカレル4世が皇帝となる時に、教皇クレメンス6世は推薦者として強力な後押しをする事となります。

カレル4世は14歳までパリで過ごしましたが、実父のヨハンよりも代父であるシャルル4世を大変に慕っていて(まぁそりゃそうですね)、パリ在住中にシャルル4世から同名の「カレル」の名をもらいました。そしてその後チェコ・ボヘミア王そしてローマ皇帝となる時にはカレル4世(ボヘミア王としては1世)として戴冠し、ヴァーツラフから改名しています。※(チェコ語名:カレル、フランス語名:シャルル、英語名:チャールズ、ドイツ語名:カール、イタリア語名:カルロ、呼び方が違うだけで全部同じ名です。)

そしてお母さんのエリシュカは、カレル4世が14歳の時にパリからルクセンブルクへ立ち寄っていた間に、おそらく結核によって38歳でプラハで亡くなってしまいました。カレル4世が最後にお母さんエリシュカと会えたのは、パリへと旅立つ直前に少し面会させてもらえただけでしたが、カレル4世にとっては、その7歳までのわずかに残るお母さんとの思い出の記憶が強くなっていて、ルクセンブルク家を背負って立つ身であっても、生涯、「自分は母親の血筋であるチェコ人である」と意識し続けていたようです(実際にその様な発言をした記録は見つかっていないようですが、彼の自伝での彼自身の記述や行動、政策からも間違いないと思われています)。そしてかつてお父さんヨハンに監禁されたり独房に閉じ込められていたクジヴォクラート城やロケト城も、カレル4世にとってはお母さんとの大切な思い出の場所ともなっていたので、新婚旅行の際には奥さんと訪れたり、滞在中は現地の人達のためにも催しを開いたりして交流をしたようです。なんだか美しくも切ない話です。

そしてお母さんエリシュカの死後3年経った1333年、カレル4世17歳の時についにお父さんヨハンから許されチェコに戻る事ができましたが (このカレルのチェコへの帰還の理由にはチェコ貴族達の非常に強い要望があり、それをお父さんヨハンが認め致し方なく(?)同意したものでもあるようです)、チェコの国境を越えてすぐ、まずどこよりも最初に向かった場所は、プラハの郊外にある、お母さんの眠るズブラスラフ修道院でした。

離ればなれとなって10年、カレル4世、ようやくお母さんと会う事ができました。

ズブラスラフ修道院(Zbraslavský klášter)

1346年にチェコ・ボヘミア王、ドイツ王、そしてその後にイタリア王、ローマ皇帝、となったカレル4世は精力的に帝都であるプラハの街造りを進めていきますが、あまりにもそのお母さんと自分の故郷であるチェコばかりに手間暇をかけていたので、他の諸侯からは不満も漏れていましたが、そこのフォローもカレル4世は決しておろそかにはしていませんでした。

カレル4世は広い帝国の版図を統治するためには、どこの国や地域にでも皇帝自らが赴いて、通訳を介さずに直接諸侯と顔を突き合わせて話をする事が何より重要である、と考えていました。確かに畏れ多くも皇帝自らが何日もかけてはるばるやって来て、眼前で現地諸侯の言葉で流暢に話されたら、もうなんだか全てを見透かされているような気にもなってコワいですね。

ちなみにカレル4世は、諸侯との面会の時には天気の良い日に暗い部屋の窓際に背を向けて座って待っていたそうです。イメージできるでしょうか。明るいところから暗い部屋に入ってきた諸侯は目が慣れずに壇上にいるカレル4世の表情を、さらに逆光でほとんど認識できずに、張り詰めた空気の中でそのシルエットから自分たちの言葉で直に語りかけてくるカレル4世の声だけが聴こえてくるんです。コワいですね。でもこれはカレル4世に限った事ではなく、統治者となった人間はよくこれをやっていたようです。

 

そして、チェコ語、フランス語、ドイツ語はもちろん、イタリア語などもネイティブ同様に使えたようで、話すだけではなく記述もそれぞれの言語で行って、さらにラテン語もマスターして神学書や学術書を読むだけではなく本の執筆もしています。ただこれは半ばカレル4世の趣味でもあったらしく、どこかへ旅をしたり言葉を勉強したり神学書や学術書を読むというのは彼自身が楽しんでいたみたいですね。

他の趣味としては騎士トーナメントに出場する事だったようで、常日頃身体は鍛え続けていて筋骨隆々だったようです (後世のカレル4世の遺骨調査では歯が1本も欠けていなかったようで、これは当時としては驚異的な事です。)。スパルタ教育なお父さんのヨハンが生きていた頃は、15歳の頃から各地の戦場へと連れ回され、顔や身体中に多くの切り傷が残っていて (ヨハンは死に場所を戦場に求め続け失明しながらもフランスのためにクレシーの戦いに参戦し戦死をしましたがその生き様が ”中世最後の騎士”とも呼ばれています。ですが息子のカレルにとっては反面教師ともなってしまったようです…それが ”文人皇帝”とも呼ばれるカレル4世を作り上げました。)、しかも当時としてはかなりな大柄な方で173cm(171cm、175cmとも)はあったという話なので、周囲を威圧する様な風格は充分にあったでしょうね。まさに文武両道を地で行った皇帝です。性格は、かなり沈着冷静で狡猾な人だったようで、狡猾とか書くとなんか悪いイメージがありますが、元より頭の回転が速い人なので、皇帝として諸侯を懐柔し統治するための根回しにもスキがなかったようです。

ちなみに、カレル4世は王様となってからは帝都であるプラハにも合わせて10年程しか住んでいません。それだけ彼の統治方法というのは、玉座にずっといて勅令を出すのではなく、普段からあちこち旅をして諸侯と会い、常に移動をし続けるものだったわけです。

そして、チェコではカレル4世の時代の前も後も戦続きなんですが、カレル4世が1346年チェコ・ボヘミア王となってから、1378年62歳で亡くなるまでの間には、なんと、一度としてチェコ・ボヘミア王国では戦争が起きていません。それどころか国外に出て行っての戦争もしていませんし、攻め込まれたりもしていません。(※チェコ以外の帝国下ではオランダ内での公爵領や伯爵領で継承戦争や派閥抗争、イタリアでピサ、フィレンツェ、ミラノ、シエーナ、教皇領などの街の間では争いが起きています。いずれもプラハから離れた帝国の端です。)

これはあまり話題にはなりませんが、中世という時代のヨーロッパの状況を考えてみても、この事実だけで充分に彼の統治は非常に優れていたものだったと言っても良いんじゃないでしょうか。

そんな皇帝カレル4世が築き上げた今のプラハの街には、至る所に彼の痕跡がありまして、それら14世紀の景観が現在のプラハの街の雰囲気を形作っています。700年も前の街並みが未だに機能し続けているんですね。

よくチェコ人から皇帝カレル4世の話が出る時には「私達の偉大な王様」と皆言います。今でもチェコ人にとっては誇るべき王様であり続けているんですね。

カレル4世時代の神聖ローマ帝国とチェコ・ボヘミア王国

勇猛な戦で領地を広げた著名な王様は数多く歴史上いますが、戦を全くしないで領地を保ち統治し続けた王様というのも、まぁ地味ではありますが、もっと知られても良いのではないかな、と思います。

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